死を免れない大病を患った人は以下に述べる5つの段階を経て成仏(あるいは召天)に至るといいます。
否認、怒り、取り引き、抑うつ、受容
否認はそのことがなかったかのようにふるまうこと。
怒りはなぜ私がこんな目にあわなければならないんだという感情にとらわれる時期
取引は死を論理的に受け入れようとする時期
抑うつはそれがうまくいかずに陥る状態
受容は最後にすべてを受け入れる境地です
数年前両親を相次いでガンで亡くしました。
そのときにどう看病していいかと片っ端から検索していたときに得た知識です。
私は心理学的な分野はまったくの素人ですがなるほどうなづけるなと思ったものです。
この段階観はそっくりそのまま患者家族にも当てはまりますし、患者の死に直面してからも悲しみの消化という形で同じような形をとるように思えます。
なんか最近の私の心境の推移がそっくりこんな感じです。
受験とは小人生なのかもしれません。
親にとっても本人とっても。
でももしかしたらこれはスランプ中の家族だけに当てはまる話ではないかもしれません。
人間は死んで灰になるまでしかわからないから受容で話は終わるわけですが、受験は別。
もしかしたら入試当日という冥府の門を開いた果ての天国こそ合否結果なのかもしれません。もちろん逆もそうですが、それに言及するのは蛇足。となるとまさに閻魔大王じゃないか受験は!
なんてことをつらつらかいてると気づきます。
今、自宅模試でウンウンうなってる長女の横で、アクビしながら絵をかいてる次女は、長女という親の背中をみて受験という人生を学ぶ子供であるのかもしれません。
だが次女よ、すまん。
もし佐賀の学校行ってしまったら君を私立にやるカネはなくなるんだ。
だから、そうならないようにしっかり見張ってくれよな。
あ、チャイムがなった。
つうか、なんで終了二分前に書いてた記述の答え全部消すかね・・・
その瞬間推定0点が確定0点になるのに。
まだまだわたくしも運命を受容しきれてないようです。
終わり
※参考資料
MSDマニュアル家庭版